「わたしたちの祈り」 03−10−26
ルカ11:1〜4
「祈り」は、信仰生活にとってなくてはならないものです。絶えず祈るように
聖書も告げます。定まった時(朝、食事、就寝前等)に祈る習慣を身につけている
方も多いでしょうし、何かあったらすぐ祈ることが身に付いている方もいます。
それは尊いことです。また、祈りについて学べたり、美しい祈りが紹介された書籍が
多くある事も、とても幸いなことです。
興味深いことに、福音書には、弟子が祈る姿はありません。それに比べて、
主イエスが祈る場面はたびたび出てきます。今日のみ言葉の場面もそうです。
弟子の祈りに先立って、主が祈っておられたことを知らされます。その祈りには、
弟子たちのことが含まれていたはずです。弟子たちは、主に祈られつづけたのです。
同時に、主が私たちのために祈ってくださっていたことを思うべきです。
祈りどころか、主の救いを知らなかった私たちのために、主が祈ってくださっていた。
その祈りがあって、その祈りに支えられ、守られるようにして、今は主を知り、祈れる
者とされているのです。自分のために祈ってくれる人がいることは、大きな励ましです
が、それに勝る喜びがあります。
その時、「主の祈り」を教えてくださいました。
「父よ」で始まるこの祈りは、本当は主にしかできない祈りであり、主が祈っておられた
祈りです。それを、一緒に祈れるようにと教えてくださいました。ご自分の祈りに、
弟子や私たちを迎え入れてくださったのです。
この祈りにおいて、私たちは、主と一緒に声をあわせるようにして祈る者と
なるのです。
必要な糧が与えられること、罪の赦されること、人を赦せること、誘惑に遭わないこと、
それを「主の祈り」を祈る私たちと一緒に、主も祈っていてくださるのです。
私たちの祈りは、つたない祈りになることもしばしばです。祈りの言葉が見つからない
時もあります。
しかし、「主の祈り」を、主イエスと一つになって祈れるのです。
この祈りは、「わたしたち」と言って祈るのですから、隣人を含んだ祈りである
ことも、覚えているべきことです。